ミゾラムからの手紙 |
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横田から近況が届きました(内容を再構成しています)。
報告が遅くなり、申し訳ありません。
2ヵ月半ほど休ませて頂いた後の溜まった仕事に加え、コンピューターのウィルス感染などが重なり、なかなか時間が取れなかったためです。
この夏の間、静養を兼ねた出張旅行をしてきました。今回は、この旅日記と帰国後の仕事を報告します。今回は少々長いので、2 部に分けてあります(→仕事編はこちら)。
旅行は6月27日から9月7日まででした。
この旅行では、7月から始まるアラハバード農科大学の特別コースに受け入れて頂いたミゾラムの若い農業青年を案内する事、カルカッタの税関に足止めされてしまった2個の小包を開放する事。デリーの日本大使館に行ってインド在留届を出す事、私用としてタイのバンコクの病院で治療と静養・バカンスが目的でした。
アラハバード農科大学
アラハバード農科大学の特別コースは、1999年に行なったミゾラム・ワークショップでも協力していただいた牧野教授がインド各地から学生を集めて正規の課程以外での農業教育を行なっているコースです。
今年、受け入れて頂いたミゾラムからの学生は、私がこれまで活動してきたプロジェクト地域からは遠く離れた場所に住んでいるにもかかわらず、ワークショップの内容を人伝手に聞いて、配られた資料をノートに書き写し(コピー機がないので全て手書きで!)、自分の畑で家族の反対を押し切って農法を試している青年です。
今年の1月に村回りをしたときにたまたま出会ったのですが、そのときに彼の家を訪ねてビックリしました。それは、私が配ったテキストがきれいにノートに写されていたこと、そして、ミカンの木が剪定されていたことでした。剪定は、私がほかの農民に教えてもなかなか実行されなかったのです。私がやってきた活動がここにも波及していたのかと感動したのでした。
彼は、大学の農学部に落ちてしまったのでやむなく政治学を学んだのですが、好きな道を捨て切れずに農業に戻ったとの事です。こんな貴重な青年を育てないわけには行かないと、牧野教授にお願いし受け入れて頂いたのです。来年5月に彼が地元に帰ってからの活躍が楽しみです。
カルカッタ郵便税関
アラハバードに彼を置いて、私はバンコクに向かうためにカルカッタに行きました。
ここには、4月と5月に日本から送られた小包が税関に引っかかり、足止めされているのです。昨年の引越の時の税関を思い出し、ある程度の喧嘩腰での交渉を覚悟していったのですが、無事何事も無くリリース。本当はここで荷物を受け取り、自分でミゾラムまで持っていきたかったのですが税関での引き取りは許されず、いったん郵便局に戻してそこで交渉しろとの事。いつ郵便局に戻されるのかを聞くと、『この書類審査が終わって局長のサインが入ってからだ』、つまりはこれからも時間がかかりそうで諦め、内容をチェックしまた税関に預け、不安でしたが郵便局に任せました。幸い荷物は全部ミゾラムに届きました。
しかし、税関の中と言ったら・・・、
ここは日本かと見間違うほど宅急便や郵パック、○○みかん等の箱であふれ返っていました。チェックされている荷物の50%は日本からのもの、残りの殆どは韓国とシンガポールからのものでした。絶対量が多いからかもしれませんが、日本、韓国、シンガポールが集中的に「やられている」様にも見えました。
私が交渉に行った時に見た状況ですと、CD、現金、貴金属、アクセサリー、電化製品は抜かれるか高い関税をかけられているようでした。CDを見つけるとニヤニヤしながら何かを書き始めたり、衣服の中のポケットも念入りに調べ、そこから現金やアクセサリーが見つかった時には何も書かずに箱の外に。しかし、私の荷物には持ち込み禁止のはずの野菜の種が入っていたにもかかわらず無税。日本酒(缶入り)もジュースだと言ってパス。結局無税で通りました。酒は缶入りに限りますね・・・
タイ バンコク総合病院
カルカッタの税関で小包をリリースした後すぐにタイのバンコクに向かいました。
実は3月頃から下痢を繰り返し、体の調子が悪く、体重も急激に減ってフラフラの状態が続いていたのです。
カルカッタで9ヶ月ぶりに会った友人たちも心配して「お前、エイズだろ」等とも言われました。私はこれまで2回経験しているアメーバ赤痢だと思い、バンコクの病院に行きましたが、結果は神経疲労による過敏性大腸炎。胃腸をリラックスさせる薬を飲みながら、体重が落ちていたので3週間ほど入院生活を送り、その後の通院を含め、結局タイでは1ヶ月半ほど過ごしました。
入院生活は退屈の一言でした。「ベッドに落ち着いて自分自分自身を見つめるのいい機会なので良い事だ」と忠告してくれる友人もいましたが、何か一仕事片付いた後では良いかもしれませんが、何一つ出来ていない中で病室に拘束されるのはつらいです。しかも体が動くわけでもないのに頭が冴えてしまっているので欲求不満になります。いっそのこと頭もやられたほうがゆっくり休めて良かったのです。
持ってきた本はすぐ読みきってしまい、病院に備えている本も目ぼしいものは読んでしまい、あとはテレビのNHK衛星放送版を眺める毎日でした。退屈な入院生活でしたが、一流ホテル並みの14階からの部屋からはバンコク市内が一望に開け、医者は日本の医大卒なので日本語堪能で、看護婦さんが豊富でいつもニコニコよく働くので気持ちよかったです。
薬で下痢を止め、食べ物が消化出来るようになり、少し体重が回復したところで、医師からは「バンコクには日本の焼肉屋が多いからとにかく食べなさい」との忠告を受けて退院しました。
JVC農場
退院後、リハビリを兼ねてJVC(日本国際ボランティアセンター)のプロジェクトであるバンコク近郊の農場に、以前からいろいろとアドバイスを頂いている村上真平さんを訪ねました。
主に草刈りとそれをマルチとして畑に敷いて一週間過ごしました。バンコクの暑い中で、筋肉が落ちてしまった体には酷でしたが、私は図体がデカイので他の研修生の前で弱音を吐くのも恥ずかしく、大した仕事でもないのに必死になりました。
村上さんはいつも私の相談に適切に答えて下さいます。かなり鋭いので心が痛むこともしばしば。しかし、全て図星で、長年の経験から南アジア人気質にも明るいので、私の相談など相談のうちに入らないようです。途上国での問題は技術的なこともありますが、一番の問題は人間関係と民族気質。全ては相手がどうとらえるかであり、それが分からないと何一つ進まないのです。相手の身になって自分の信念を通す、これは難しい問題です。
カンチャナブリ
通院のためにまたバンコクに戻り、その後は映画『戦場にかける橋』の舞台になったカンチャナブリにサイクリングをしにいきました。本当はサメット島で泳ごうと思っていたのですが、以前から贔屓にしていたロッジのオーナーが替わってしまい話が通らず、宿泊料金も上がってしまったので変更したのです。
カンチャナブリは6年ぶりです。ここにも贔屓のゲストハウスがあったのですが、ここも潰れていました。近所の人の話では3年前に潰れたとのこと。なにか思い出がどんどん失われていくようで寂しい思いでした。ここで5日間ほどサイクリングで体力作り。たった5日間でしたが、落ちていた足の筋肉が驚くほど回復しました。
自転車が消えた!
カンチャナブリで驚いた事は、自転車を見かけなくなったことです。以前はバンコクの排気ガスを避けるためにここで自転車を乗り回して過ごしたのですが、今は地元の人はみんなモトサイ(モーターサイクルのタイ流略語)に乗っており、ゲストハウスにはオンボロ自転車が申し訳なさそうに転がっているのです。鍵も壊れており、絶対に盗まれないし盗まれても構わないと言う事でタダで貸してくれました。
洗濯石鹸が消えた!
消えたと言えば、タイから洗濯石鹸が消えてしまったのです。すべて合成洗剤になってしまいました。洗濯石鹸をあちこち探しましたが、どこにも置いてありませんでしたので、仕方なく洗濯は化粧石鹸を使いました。環境のためにも健康のためにも、タイの人には良く考えて頂きたいものです。
そしてまた通院のためにバンコクに戻り、この病気は全治するには時間がかかるので薬をたっぷり貰いインド・デリーに向かったのでした。
バンコクにいる間は毎日寿司と刺身を食べて過ごしました。
もちろんなるべく栄養をつけるためですが、ミゾラムでは絶対に食べられないものだからです。これまでタイには数十回来ていますが、タイで日本食レストランにこんなに通ったのは初めてです。割高ですが、一年も日本を離れ、しかもまたインドに帰るとなると食い貯めをするしかありません。最近はジャポニカ米を使う店が増えて美味しくなりました。
あちこちの日本食レストランに行って驚いた事に客はタイ人が殆どで、しかもワサビの使用量がハンパじゃないのです。私もワサビは大好きで、よくワサビの薬味に刺身を食べているようだと言われたのですが、その私の2倍は使います。またトンカツのソースも大量に使います。タイ料理が刺激が多いので、やはり刺激物が好きなのでしょうか。
インド・デリー
10年ぶりにデリーに行きました。結婚した時に、結婚届と結婚証明書、彼女の日本VISAを取るために訪問して以来です。
よく知っている町でしたが、10年ぶりなのでどのくらい変わったのか楽しみでした。デリー駅前のバザールの光景は大して変わっていませんでした。もっとも、昔からごちゃごちゃ建物が建っており、変わり様も無いのです。しかし、インターネットカフェが沢山出来て、その点においてはずいぶん変わりました。そのため、インスタントコーヒーをすすりながら汚いカフェで手紙を書く風景は殆どなくなってしまいました。
インターネットは一時間20ルピー(約55円)で手紙を書くよりも安いし、そこはたいてい冷房が効いているので、暑さ凌ぎには一番ですのでついつい入ってしまいます。通信事情も格段に良くなりました。もう、電話を探し回る必要はありません。しかし、停電は相変わらずで、夜、扇風機が止まって眠れなくなる事もしばしばでした。
人々の生活も随分変わっています。ゴミを見れば分かります。私の定宿は(ここもタイ同様経営者が変わってしまったのですぐ退散)ゴミ置き場を抜けていくのですが、ここにサンダル、ビニール、ペットボトルが捨てられているのです。これらは以前は必ず誰かが集めてリユース/リサイクルに回されていたものです。
トヨタ、日産、大王、現代などの外国車やバイクも増えました。以前は車と言ったら殆どがインド国産のアンバサダーで、それも殆どがタクシーでしたが、今は自家用車のほうが多くなりました。そのためか、デリー駅前広場は野良牛の溜まり場からタクシーの駐車場に変わっていました。野良牛の数も非常に少なくなりました。
清涼飲料水もかなり飲まれるようになっています。ペプシコーラ、コカコーラが入ってからです。以前からインド国産のカンパコーラやタムサップ、リムカと言う清涼飲料水がありましたが、飲むのは殆ど外国人でした。今は普通のインド人が飲んでいます。
人々の生活様式が変わるにつれ、暴力も増えました。喧嘩はもともとよくありましたが怒鳴り合いが殆どで、警察が乞食をいじめるのは別として暴力は滅多にありませんでした。今は日常茶飯事で、暴力沙汰の喧嘩を良く見るようになりました。
以上は、私がよく行くカルカッタや後述のバラナシも同様ですが、デリーのことを言えば、マクドナルドの大展開があります。ここもインターネットカフェ同様冷房が効いていて、実は良く通ったのです。平日午後の4時間はサービスタイムで、コーラ1杯買うと1杯オマケがくるので、町で2杯飲むのと変わらない値段になります。しかし、良く通ってしまった理由はそれだけではありません。店の内外を見ていると面白いのです、と言うか、インドに憂いを感じ、考えさせられるのです。
店員はみんな笑顔できれいな英語を話します。つまりはこの国のエリート達です。しかし、このエリート達がテーブルを片付けたり、一生懸命良く掃除をしているのです。何時行っても『スリップ注意』の立て看板を立てて店のどこかを掃除しています。また、インド人女性は見知らぬ人に笑顔を見せる事はありません。それも強要されているのでしょう。日本では当たり前ですが、誰に対しても対応に笑顔を見せます。さすがに日本のメニューの様に『スマイル0円』はありませんでしたが。マクドナルドのサービスの手法は完全にこの国の文化・風習を無視しているのです。親が見たら、あるいは親類に見られたら大変な事になる筈です。・・・、以前なら。
インドではご存知のようにカースト制度により、身分差別があり、またそれは職業分担でもあります。一般のレストランでも給仕をする人、テーブルを片付ける人、勘定をする人は厳格に別れていますので、たとえテーブルが汚れていて給仕係の手が空いていても、給仕係がテーブルを拭く事はありません。そして床掃除は身分の一番低い人の仕事です。エリートは絶対にしてはならない事でもあるのです。
また、大人の女性が見知らぬ人に微笑みかけるだけでも淫売との噂を立てられる事さえあります。それほど『笑顔が普及』していないのです。インド人のエリート女性が、お客とはいえ見知らぬ人に笑顔を振りまき、床を掃除することは、慣習としてありえないことだったのです。
たぶん、親も親類も苦々しく思いつつも、アメリカの大企業に就職できた事にインド人としての誇りを捨てているのではないかと思います。今はまだ、客層がインド人の紳士・淑女と外国人だけですが、マクドナルドが庶民的になったときのことを思うと、マクドナルドの企業姿勢がインド文化に適合しているか疑問を感じます。
また、店の作りも外国と同じ総ガラス張りで、インドの場合はこれが悲惨です。中から外が良く見え、当然外からも中が良く見えます。つまり、店の中から乞食が良く見えるのです。乞食も客が何を食べているのか良く見えるのです。
インド人には気にならないことでしょうが、外国人にとってはやはり気持ち良くはありません。店の入り口にはガードマンが2人立っており、普通の高級レストランでは暴力的に乞食を追い払うのですが、マクドナルドでは店の印象を考えてか絶対に暴力をふるいません。そのため乞食が何時までもガラスにへばりついて客に目配せしているのです。外国人客はたいてい彼らのためにフライドポテトを残し、帰り際に店の外で渡します。そしてこれが当たり前になっているのです。マクドナルドに寄り添う乞食は、フライドポテトだけで腹を満たしているのです。
デリー大学北キャンパス
ここはミゾラムとの出会いの場所です。ここでミゾラムの学生(現在の義弟)と出会ったことが今につながっています。学生達のアパートには随分と居候し、大家さんにもだいぶお世話になったので挨拶にと思い、11年ぶりに行ってみました。
以前はだだっ広い野原に家が転々とし、牛がそこら中にたむろし、出店の八百屋などがあふれ、ハリジャンキャンプなどもあったところですが、今はガラッと変わってきれいな家がぎっしり立ち並び、人々の装いもきれいで、田園調布のような感じになってしまいました。ここで、オートリクシャの修理屋の角と、映画館の看板、バス停を頼りにグプタさんと言う大家さんを探そうとしたのですが、目印が全て無くなっており、しかもグプタさんと言う名はインドでありふれた名前、結局家が見つからなくなってしまいました。
ここにもマクドナルドがあります。乞食はこの町からいなくなってしまったようで、太った金持ちのおばさんが民衆に経済力を示すかのようにマハラジャバーガー(ビッグマックのインド版でマトンバーガー)にかぶりつき、上品な良家のお嬢さんがコーラを飲んでいます。アラハバード農科大学もそうでしたが、大学構内にも自動車とバイクがあふれています。広いキャンパスの中、芝生の緑がデリーの暑さを和らげていたのですが、庭の多くが駐車場に替わってしまいました。車のボンネットに反射する陽の光に禿げ上がって土が剥き出した芝生跡がデリーをいっそう暑苦しくさせています。
デリーでは日本大使館に在留届を出すのが目的でした。通常在留届は最寄りの領事館で済ませられるのですが、ミゾラムは特別地域なので管轄がデリーになってしまうのです。昨年の引越の時にカルカッタ領事館に届けに行ったのですが受け付けられず、なるべく早めに出すように言われたのですが、2500kmも離れたところに行く機会も無く1年遅れの届けとなったのです。その他、助成金や農政について調べてアラハバードに向かいました。
アラハバード農科大学
この旅の最初に行きましたが、その時には牧野先生に会えませんでしたので、改めて挨拶と研修生の様子を伺いに行きました。もう一つ、ここは冷たい牛乳が飲めるのが嬉しいのです。デリーにも冷たい牛乳を出すところはあるのですが、ここはとても美味しいのです。他にアイスクリームやヨーグルトもあってそれが美味しく、乳製品好きにはとてもありがたいところです。
ミゾラムからの学生の研修生活は充実しているようで、ノートもきちんとまとめられ、条件を変えながらの稲の生育試験や鶏の育雛を行なっていました。寮生たちとも楽しい研修生活を送っているようで、特に同じインド北東部のマニプール州・ナガランド州から来ている学生達とは、同じ境遇の中で話がよく通じ合い、今後長いお付き合いと良い協力関係が出来そうです。
牧野先生からは、インドでの組織の運営の仕方や助成の受け方など、インドの法律などに関するの助言を頂いた他、部屋の整理と言って本を300冊あまりも頂きました。私が読んだ事のある本も沢山ありましたが、偉大な先生と同じ本を読んできたと思うと嬉しくなってしまいます。また、カルカッタ総領事の方も紹介していただき、この後のカルカッタでは管轄は違うもののミゾラムの開発について相談に乗っていただく事が出来ました。
バラナシ
ヒンドゥー教の最大の聖地であるバラナシにも6年振りに寄りました。ここは11〜15年前に入りびたりになっていたところで、以前宿泊させて頂いていた恩師の音楽の先生(インドの太鼓でタブラ)を訪ね、コンサートを聞き、沐浴で身と心を清めてきました。
今回は先生の家には泊まらず(練習していないので恥かしい)クミコハウスと言うペンションに泊まってきました。名前の通り、日本人の久美子さんが経営している宿です。昔から日本人には知られている宿ですが、評判はいまいちだったのでこれまで泊まった事はありませんでした。数年前に評判になった遠藤周作の『深い河』にもちょっと出てきたので、経験の意味を持って泊まりましたが、汚いことを除けば悪くはない様で、部屋から真下に見えるガンガーの眺めは最高です。しかし上流から流れてきた死体が目の前に繋留してあるボートの縄にしょっちゅう引っかかっており、初心者には厳しいかもしれません。
長く居付いた場所でしたが雨期にきたのは初めてで、水量が増し広くなったガンガー(ガンジス河)に沐浴場が狭められ、観光用のボートの隙間をぬって沐浴をしました。また、川での洗濯の取締りが厳しくなり、洗濯をしていると咎められます。どこで洗濯しても下水が処理されるわけでもなく最後はガンガーに流されるのに。
久しぶりに聞く先生のコンサートは相変わらず感動します。音色がとても澄んでいてきれいな事と、学生達に教えている基本通りに叩くので指の運びがとてもきれいなのです。この先生以上にきれいな叩き方をしている奏者を見たことがありません。
カルカッタ
旅の最後はカルカッタです。とは言ってもカルカッタは私にとって庭みたいなものですので、自分の家に帰ってきたようです。ここでは、木酢液を入れるペットボトルを探し回りました。ミゾラムで地域開発、農業開発の一つとして炭焼と木酢液採取を推進していますが、それを流通させるために入れる容器が必要なのです。ミゾラムで業者に頼むと1本10ルピーもかかります。ミネラルウォーターが仕入れ値で9ルピーですから、中身が入っていたほうが安いのです。馬鹿らしいので直接仕入れに、工場を探して見積もりを取ってきました。大都市のカルカッタですがペットボトルを作っているところ殆どボンベイ近郊にあるらしく探し当てられたのは2社のみでした。購入に際しては値段のみならず、品質、購入最低量、梱包・輸送の問題もあり、それぞれ一長一短があり現在検討中です。
いけにえ
カルカッタのカーリー寺院では毎日羊のいけにえを捧げています。10年前まではこのそばのマザーハウスのボランティアに良く通っていたのですが、この寺に入っていけにえを捧げるところを見るのは初めてでした。羊の首を固定し、大きな包丁(刀?)でスパッと一瞬のうちに切り落とします。羊は頭をはねられた後も胴体部が動き回り、走り出そうとし、押さえつけた人の手に反応して抵抗します。と言う事は、全て脳細胞からの指令で体が動くと言う現在の常識は間違いなのです(夢野久作は著書『ドグラ・マグラ』の中で主張しています)。
現在の常識の間違いと言う事で余談になりますが、我が農園の豚や鶏たちには特にカルシウムなどは与えていませんが、よく成長していますし卵も産みます。カルシウムは原子なので合成出来ないものの彼らの体には存在し、卵として排出されています。これは原子転換(つまりは錬金術)がありうる事になります。これも現在の常識とは異なります。
さて、このいけにえを見た後、なぜか体に一つ違う力がついたのが不思議です。馬鹿なことをと自分でも疑うのですが、言葉では言えない力か魂が取り付き、その重みも感じていたのです。そして9月にプロジェクトエリアのチンチップ村の孤児の施設で鼻を垂らした子供を抱いたとき、すっとその力か魂だかがその子供に移っていったのです。突然の事でした。次の瞬間、体が軽くなると同時に力が抜けたようになった感覚ははっきり覚えています。
インドではこうして常識では考えられない事を実際に体験しています。インド人はこれらを受け入れて、大切にしてきたからこそ動かしがたい文化を持っているのだと思います。良くも悪くも、そして外国人がどう思おうと、全ての事に体験的な根拠を持っているのです。
牛肉ステーキ
カルカッタでは体力をつけるためにステーキを食べ続けました。ミゾラムでも牛肉は食べられるものの、ステーキはありません。精肉・熟成技術が無いからです。インドで牛肉を食べる事はタブーですが、それでも何軒か牛ステーキが食べられる店があります。
西洋風なので一枚がとても大きく、日本人の男なら一枚で十分満足の大きさで65ルピー(約170円)です。たまたま出会った肉食の女の子を連れて行った所、信じられない程に良く食べ、その大きなステーキをぺロット数枚たいらげ、彼女につられて私も食べてしまいました。翌日胃が重かったものの、その一回だけで胃がだいぶ大きくなったようです。
その後体重がどんどん増え、元には戻っていないものの、理想体重には戻りました。それまでは皮下脂肪が落ちていたので、気温の変化にとても弱くなって、少しの暑さで汗がだらだら流れ、少し涼しいだけで震え上がり、水シャワーでさえ辛かったのです。出会いとは不思議なもので、必要な時に必要な出会いがあるようです。その出会いを如何に大事にするか。たかが旅人、されど旅人。たかがステーキ、されどステーキ。一期一会の教えの通りだと思います。
カルカッタで頂いた本
カルカッタに留学している日本人から2冊の本を頂きました。評判になったので読んでみたいと思っていたものの、裁判沙汰になったりインターネットで論争があったのであらすじを知っており、特に強い関心を抱いていたものでなかったのですが、読んでみるとやはり自分を振り返させる物です。
そう、『チーズはどこへ消えた?』と『バターはどこへ溶けた?』です。ここに書かれている内容など、私は常に見てきたし、その中で行動をしてきましたが、改めて単純に整理してある物語を読むと、自分の中に迷いを感じます。私は以前『チーズ』を突き進み、今は『バター』を歩んでいるものの、タマには成れていないようです。2匹目のどじょうの『バター』のほうが僕は好きですが、これは両方立て続けに読んだから言えるもので、最初に『チーズ』を読んだ時には昔がむしゃらに走った時の事を思い出させ、心を奮い起こそうとしたものでした。この2つは同時に読まないと人間を狂わせてしまうかもしれません。『チーズ』が企業で配られていると言う話も聞きましたが、私は『バター』がお勧めです。
日本総領事館
牧野先生の紹介により、日本総領事と面会する機会がありました。前述のようにミゾラムは管轄外であるものの、地域開発や土地柄については強い関心を持ってくださったようです。入域許可が必要なミゾラムでも、外交官は外交官特権で簡単に入れるものと思っていましたが、外交官だからこそ余計に難しいと言う事でした。結局カルカッタに居てもデリーの内務省に許可を受けなければならず、そのために管轄がデリーになってしまっているとの事です。カルカッタからは近くて遠い場所なのです。しかし、国によってはカルカッタ領事館が管轄していると言う事ですので、日本人の利便を考えて頂き、将来はカルカッタに管轄して頂きたいものです。
日本総領事の官邸にも招いて頂き、旅の最後でとてもすばらしいもてなしを受けました。
以上のような旅をさせていただきましたが、バンコクでの入院・通院が予想以上に長引いたため、静養・バカンスとまではいきませんでした。体が資本でもあるので、早く仕事を一段落させて、もう一度バカンスの機会を探りたいと思っています。
横田仁志
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