活動報告
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ナガランド視察
(2004年12月6日〜12月10日)
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2004年12月6日から10日まで、ナガランド州を視察しました。ナガランドはミゾラムと同じ北東インドにあり、ミゾラムより二つ北にある州、マニプール州を挟んで北側に位置します。日本人の祖先だと言う説もあるところで、以前から一度行ってみたく思っていたところでした。

ミゾラムと同じ北東インドですが、ミゾラムがほぼ単一民族なのに対し、ナガランドは更に多くの少数部族に分かれ、それぞれ言葉も全く違います。インパール作戦の攻防も行なわれたところです。今回はアラハバード農科大学やアジア学院の卒業生の活動を視察に行く機会に恵まれ、同行させてもらいました。

ナガランド州の玄関口はディマプール、ここはアッサム平野の東端に位置し標高は120m。山岳地帯といわれるナガランドの中でここだけ平野です。アッサム人やベンガル人が多く、ナガランドと言えど街の様子も含め他のインドとあまり変りません。空路で来るにも陸路(鉄道・車)で来るにもナガランドはここから入ります。州都のコヒマまではここから車で2時間、標高1500mまで山道を上っていきます。ミゾラムに比べ山はなだらかで、道も広く取ってあります。途中、アラハバード農科大学やアジア学院の卒業生の活動を視察しました。

コヒマは元々アンガミ族の土地でしたが、州都となってからは他の部族も入ってきて多民族の町となっています。多民族といえどもみな私達と同じモンゴル系の顔なので、ちょっと見ただけでは分かりません。しかし、よーく見ると、何故かみな英語で話していたり、ナガ語(ヒンディー語に似ている)を話していたり、同じ民族同士であればさっぱりわからない言葉を使っているので、多民族であることに気が付きます。また、更になれてくると、部族によって顔付きが少しずつ違う事も分かります。


ロタ族の村

私達は、先ずこの旅をコーディネートしてくれたアラハバード農科大学の卒業生サンチョさんの実家のあるリフィイム村を訪ねました。サンチョさんの部族ロタ族の地域です。リフィイム村はコヒマから北へ車で3時間の町ウォカに行き、更に山道を1時間の旅。ナガランドの風景を楽しみながらの移動です。

コヒマ周辺のアンガミ族の地域は段々畑が良く整備され、焼畑はあまり行なわれていません。森もかなり残っています。アンガミ地域を離れるにつれ、だんだん焼畑地が広がってきます。しかし、ここの焼畑はミゾラムが毎年移動するのと違って、複数年耕作した後に移動していくそうです。その目安にアペフと言うイネ科の草を見て、これが生えていればまだ使い、生えなくなったら移動するそうです。

写真:00.ロタ族の村(写真をクリックすると拡大します)

写真:00.01ロタの子供(写真をクリックすると拡大します)

リフィイム村ではサンチョさんの実家とその畑を散策して、郷土料理を頂きました。見た目には水で茹でるだけのミゾラム料理と変りありませんが、ここの料理には必ず発酵食品の味付けがしてあります。醤油や味噌で味付けをする日本人に受け入れやすい味です。

写真:02.ロタ料理(写真をクリックすると拡大します)

ご飯のお米がとても美味しく、籾を見せてもらおうと頼んだところ出てきたお米がなんと9種類! いろいろ混ぜているのではありません。焼畑地の肥沃度を見ながら毎年撒く籾を変えていくのだそうです。

写真:021.ナガの米(写真をクリックすると拡大します)

ちなみにミゾラムの農家ではふつう1種類だけ、もち米を作る人は2種類。篤農家でも3種類程度です。収穫されたお米は部落の外れにある各家の穀物庫に保管します。穀物庫は部落で共同管理・警備を行っています。

写真:022.ロタ族の穀物庫(写真をクリックすると拡大します)

コノマ村

コヒマに戻り、次は南に1時間ほどのコノマへ。コノマはイギリスの統治の統治を最後まで拒んだ地域でもあります。ここもアンガミ族の地域です。谷には棚田が広がり、山にはこの地域独特の焼畑地があります。

写真:03.アンガミ族の焼畑(写真をクリックすると拡大します)

この写真の後ろにそそり立つ怪獣みたいな木が『エルダー』と呼ばれる窒素固定をする木で、焼畑地にこの木を植えます。写真の木は樹齢100年以上だそうです。焼畑はこの木の幹2mくらいを残して伐採し燃やします。しかし、木自体は生き残ります。この状態で2年畑を使います。1年目にとうもろこし、2年目に雑穀を主に植えます。

写真:04.アンガミ族の焼畑(写真をクリックすると拡大します)

生き残ったエルダーは新梢を伸ばします。3、4年目は畑を休ませて、5年目に4年間伸ばした枝をまた切って太い枝を薪に、細かな枝や葉で焼畑を行うと言う4年サイクルの焼畑です。窒素固定をする木を残し、輪作する事によって4年サイクルでも充分に収穫できるとのことです。素晴らしい智恵です。

ナガランドとミゾラム

どうしても現在自分が活動しているミゾラムと比べてしまいます。この旅で見た限りでは、ナガランドの方がずっと智恵のある生活をしています。複数年使う焼畑、土地の肥沃度の目安の草、状況によって選ぶ9種類もの種籾の貯蔵と更新。料理の際のちょっとした味付け。窒素固定をする木を取り合わせた焼畑。なぜ、こんなに智恵に差があるのか? また、農業以外でも例えばミゾラムと同様斜面に家を立てますが、ナガランドは皆、きちんと石垣を築いて基礎が補強してありますがミゾラムは長い支柱を立てるだけ。ミゾラム人はなんと怠惰な事か?

守られている伝統

ナガランドの村を訪ねると伝統的な佇まいが今もきちんと残っています。これは残しているのか残らざるを得ないのかは今の私には分かりません。ミゾラムの集落より家が密集しているため、車が入れる余地がないのも幸いしているかもしれません。斜面に密集した集落には新たな車が入れる道が作れません。

予算が少ないため守らざるを得ないのではないかとも思います。確かな事は言えませんが、人々の話をまとめると、予算が独立運動の地下組織に渡る、紛争地帯でピースボーナス(紛争がなかった州へのご褒美予算)が貰えない、汚職まみれでお金がないそうです。ミゾラムより遅れたインフラ整備が近代化を阻害しているのは確かですが、私にとっては、また旅行者にとっても伝統ある村を訪ねるのは気持ちのいい事です。彼らが好んでこの伝統を保持していけるのか、もしくは近代化と言う名の民族破壊がなされて行くのか? ミゾラムのようにはなって欲しくないと思っています。汚職まみれと言う事ですが、ナガランドの役人の汚職はミゾラムより遥かに少ないように見受けられます。ミゾラムの役人は皆豪邸に住んで高級車を乗り回していますが、ナガランドの役人は質素、街に走る車の数も非常に少ないです。(貯金を溜めこんでいるのかもしれませんが) 議会が各部族の代表からなっているのでお互いけん制しあっているので単一民族のミゾラムより不正が少ないとも聞きました。

伝統が守られている中、家の作りで屋根だけは以前の萱葺きからトタンに変っています。これは焼畑の火の粉による火災を防ぐためで、このおかげで火事は少なくなったものの、夏は暑く冬は寒い家になってしまったと嘆いていました。

戦争墓地と慰霊碑

最後にインパール作戦の激戦地でもあるナガランド、戦争墓地と慰霊碑を訪ねました。と言っても日本軍ではなくて連合軍です。

写真:06.戦争墓地と慰霊碑(写真をクリックすると拡大します)

タイのカンチャナブリ(映画『戦場にかける橋』の舞台)にあるものと同じ形で、これを見て改めてインパール作戦の行軍を想像させました。(連合軍の戦争墓地はどこでも同じ形なのでしょうか?) 今、カンチャナブリは観光地として静かな賑わいを持った町になっています。農村に囲まれ、豊かな自然が残り、交通至便で適度に観光客が訪れ、のんびりしたタイ人とその生活の中、心地よく過ごせます。ここがインパール作戦の始発からチョット先、終点のチョット前がナガランドです。

ナガランドでは今も紛争が続き、インドと言う大国の外れ、交通不便で外国人入域制限地域。この間に現在軍政・民主化で争っているミャンマーの諸民族が入ってきているのです。タイ族、カレン族、ビルマ族、シャン族、ナガ族、メイテ族(インパール人)、すぐに思い浮かぶだけでこれだけの民族の中を歩き通したわけで、『探検』と呼べるような行軍と言えるでしょう! インパール作戦の戦記でこれらの諸民族の様子まで含めたものはあるのでしょうか? あったら寄付お願いします。

まだまだナガランドについては知らないこと、分からない事だらけですので多くを書けません。自分で実際に見たり経験しないと、人から聞いた事が実際と全く違う事が多いのは、ミゾラムの生活で身に染みています。物事の意味の捉え方の違いもあります。また、民族みんなで勘違いしているケースと言うのもあります。これから始まる長い付き合いの中で順次紹介していきたいと思います。