ミゾラムからの手紙 |
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横田から近況が届きました(内容を再構成しています)。
待望の米の収穫(2001年10月)
米粒が欲しいわけではなく、ここの品種、陸稲でどの程度実るのかを実際に自分の目で確認したかった事と、稲藁が欲しかったので、一応は満足です。
収穫自体は僅か45kgですが、1反当たり230kg。日本の平均からすれば半分以下ですが、こちらの焼畑の平均の約2倍です。私の農園はずっと以前に段々畑に整備されたものが10年以上放置されていた土地なので斜面での焼畑と一概に比べられませんが、別に山を焼かなくてもきちんとした収穫は上げられます。
米はなんとしても自給したいものです。単に主食であると言う事だけではなく、稲藁、籾などの農業に必要な資材が取れるからです。政府は基本的に焼畑を禁止していますが、換金作物としての生姜生産を推奨しており、結局これも焼畑で行われているので、それなら米を作り続けるべきだと思っています。一時期生姜が良い値段(80円/kg)で売れた事から皆これを真似て爆発的に増えましたが、結局市場が無く、8円/kgにまでなってしまいました。それでも夢見る農民は売れるまで待つため、収穫せず保存のために畑に植えられたまま。畑の無駄遣いなのです。
母の死亡(一週間にわたる葬式)(2001年11月)
11月2日にこちらの義母を亡くしました。1年前から分かっていた肺ガンによるものでしたし、家族も医師の治療を拒み祈祷師に従っていましたので、冷たい言い方かもしれませんが、私にとっては予定通りの死でした。
こちらの習慣により、1週間昼夜ぶっ続けの葬式、実際は昼間は3日ほど毎日弔問客が訪れてほぼ終わりですが、夜は毎日歌い続けると言う、家族にとっては厳しいものです。
鶏の全滅(2001年11月)
ちょうど母の葬式中から、鶏がどんどん病気に罹り死んでいきました。結局わずか10日間の間に1羽を残して60羽以上、ほぼ全滅してしまいました。獣医畜産省の獣医に解剖してもらった結果、原因はニューカッスル病でした。
日本ではワクチンが普及しているので問題ありませんが、ここではワクチンはあるものの入荷は不定期、個人的に冷凍輸送は難しく、しかも1本は500羽用、都市近郊の一部の金持ちの養鶏場にしか使える状況ではありません。
なるべく田舎の農家の条件に合った形で地域開発したいと思っているので、私も使いませんでした。ここには氷やアイスボックスがないので、冷蔵庫で作った氷(ほとんど霜状態)をバケツに詰めて農園まで運ぶのが面倒臭かった事もあります。しかもワクチン入荷日に合わせなければならないし。また、こんな山奥に伝染病があるとは思っていなかったと言う甘い判断もありました。獣医には「お前が町から通っている限り条件は町と同じ。市場に行った人なら誰でもウィルスを体につけて撒き散らしているんだ」と怒られてしまいました。
そうは言ってもワクチンをきちんと普及できない責任は取らないし、獣医畜産省では整った自分の孵化場で大量に生産するのでワクチンを使いこなし、そのヒナを配給しているだけで、一般の農家にはとても真似できるものではありません。小規模で行う養鶏が全く考えられていないのです。養鶏の意味とは肉や卵の生産だけでなく、鶏糞の生産・利用を考えているので、各農家での小規模養鶏でなくては意味が無いのです。大規模養鶏は結局金持ちをより金持ちにしてしまうだけなのです。
使いたくない抗生物質は常温保存できるので普及していますが、使いたいワクチンが上記の点で利用が難しい状況です。しかし試しに与えた地元の細菌を培養して作った液体がもしかしたら使えるのではないかと期待しています。
獣医には鶏舎を充分消毒し、放し飼いの鶏を全て処分し、2週間以上空けてから使わないと、またすぐ同じ病気に感染すると宣告されましたが、引き続き雛を購入し、細菌培養液を与えたら、それ以後ニューカッスルは発病していません。2月に来て頂いた『生命農法』(三五館)の著者で百姓の高橋丈夫さんにも確認したところ、これで良いとのお墨付きを貰いましたので、一つは成功を見る事ができました。獣医畜産省の獣医も関心を持ち始めていますので、ある程度確認できたら広めていきたいと思っています。この菌体の作り方はヒ・ミ・ツ!!です。自分でも驚いています。
しかし、コクシジウムは防ぐ事ができず、雨季が始まった4月からはヒナがバタバタ感染してしまいました。簡易鶏舎では、山国特有の横殴り・下殴りの雨の浸入を防ぐ事ができず、また、濃霧も鶏舎を湿らせてしまいます。
また、私の鶏舎では一つの鶏舎で成鶏から雛までを混ぜて飼っています。一般には大きさの違う鶏を一つの鶏舎に入れることは良くないとされていますが、毎週雛を入れていくと、鶏も慣れてきて問題は起こりません。これも鶏舎を何棟も建てられない農家を想定した実験です。この方法の良いところは、雛が止まり木で寝るようになるのが早くなる事。通常7〜8週かかるところ、4〜5週で止まり木で寝るようになります。しかし、後述しますが、ネズミの被害のため今は育雛をストップしています。
放し飼い養鶏
在来種も現在成鶏14羽を放し飼いにしています。農村ではみな在来種を放し飼いにしていますが、これを改善して同じ環境で規模を大きくしたいためです。
昨年のニューカッスルは在来種にまで感染し、3羽が死亡、残ったメスは子育て中に野良猫に次々と襲われ、結局昨年春のスタート時からの鶏は一羽の雄だけになってしまいました。
野良猫は、子供をかばって逃げない子育て中の雌鶏を狙います。そこで、昨年来、加温無しでの育雛に成功しているので、生れて3日から10日齢で鶏舎に入れることにしました。親鶏は2日から5日で子供の事を忘れます。そして1ヶ月を過ぎたころに放し飼いに戻します。鶏によりますが、こちらの鶏は喧嘩っ早く、早いものでは生後3週間で激しい喧嘩を始めます。鶏舎内の他の雛に影響を与えないように、喧嘩を始めたら放し飼いにしています。雌鶏は子供と離れると2〜3週でまた卵を産み始めます。子育ては普通2〜3ヶ月かかりますから、生後すぐに離すと卵50個位の増収になります。雛は親と離れても問題なく成長します。これも大成功でした。
しかし、調子に乗って増やしすぎたため、雨季に入ってから問題が起こりました。放し飼いの鶏は豚舎の梁で寝ます。寝るときは強いものから順に寝床を決め、弱いものが最後に家に入ります。晴れていればこれでよいのですが、雨となると瞬く間に集中豪雨になりますので、順番にゆっくり豚舎に入る時間がなく、弱い鶏、若い鶏が屋根の下に入れず、雨ざらしになってしまったのです。結局中雛以下の20羽が殆ど風邪を引いて死んでしまいました。雨よけの屋根だけでも必要なのでした。
天敵
2月末に近所の人が野良猫を捕まえました。これまで私の農園に出没したもので、子育て中の雌鶏を食い続けていたものです。近所の鶏もこの猫にやられたと言う事でした。大喜びも束の間、その後3日目からとたんにネズミの被害が出てきました。雛がどんどん食われてしまうのです。これまでネズミが来なかったのはこの野良猫が守っていたのです。成鶏の被害と雛の被害、一概には比較できませんが、これまで子育て中の雌鶏以外に被害は出ていないので、野良猫がいたほうが良かったのかもしれません。放し飼いの在来種は空が飛べますし(本当です)、夜は豚舎の梁で寝るので、猫は豚を恐れて襲わないのです。それにしても一匹の猫の行動範囲の広さには驚きました。半径500mくらいをカバーしていたようです。
しかし、一番の天敵は何と言っても人間です。これまでの被害で一番大きいのは盗みです。動物は自然の摂理に従ってくれますが、人間は金銭欲にしか従いません。
冬作の麦が届くが遅すぎ、結局失敗
3月から注文していた麦種が11月になってやっと来ました。冬作に何か作らねばとアブラナと共に注文していたのですが、結局乾季に入ってからの播種になってしまい、水不足で麦は成長しませんでした(アブラナは収穫できました)。乾季の土壌保全と言う意味では充分な有機物は確保できませんでした。
農業高校新設計画開始(2001年11月 -- 現在も作業中)
ミゾラム政府主催の各種農業セミナーが毎日いたるところで行われています。私も講師として出席することもありますが、受講者としても出席しました。受講者には参加費が配られます。参加費を払って受講するのではなく、受講するとお金が貰えるのです。それも70ルピーも。70ルピーとはミゾラム政府が定めた雇用者に対する最低日当で、日本でいえば5000円に相当します。その他メモ帳、ボールペン、野菜の種、各種資料が配られます。
セミナーは軽食付で休憩時間も含めて4〜5時間。セミナー参加者のほとんどは参加費と軽食やおまけを貰うことが目的のようです。このときは微生物資材の講義でしたが、32人が参加したセミナーも、メモを取っているものは私を含めてほんの6人。講義には盛んに頷くが何もわかっていないのです。資材の使い方など、メモをとらずに扱えるわけがありません。インドNo.1の識字率を誇るミゾラムも、文字を書くと言う意味がわかっていないのです。
講師も講師で何もわかっていません。私の質問に何一つ答えられず、『知らなかった』『これからの課題だ』『いろいろ教えてくれてありがとう』と言うだけです。結局、政府の役人はあとの結果は農民の責任とするのです。結果は目に見えています。
ミゾラムに農業高校を作れないだろうか -- これは私が夢見ていることです。ミゾラムの農民は知識が乏しく、観察能力に欠けています。偉そうな事を言っていると思われるかもしれません。あなたはどうなのかと言われてはそれまでです。ミゾラムの農民は学習能力が非常に足りないと感じます。教えても教えても理解してくれません。口で教えるよりも実践が先だと言っても、理屈ばかり要求され、その時には理解しているようでも全く分かっていないのです。「どうして?」「何故?」と言う質問は多いし、答えてあげるとよく頷くけれどもそこでお終いです。ノートを取らせてもそのノートを見ないし、多分見ても彼ら自身何を書いたのか理解できないのでしょう。
この原因は教育制度と補助政策から農民が腐ってしまったものと見ています。学校教育とは知識を教えるのでなく、自分自身がどう創造していくか、考える力、知識を得る方法を得るもの。たぶん詰め込み教育であっても、知らず知らずのうちに想像力も養われるのでしょう。しかし、長年その想像力を使っていないと錆付いてしまいます。錆なら磨けば何とかなりますが、完全に錆落ちてしまったらどうにもなりません。
しかし、教育を受けていない人でも、自動車の修理工には学習能力も観察能力もあります。新しい車種の車で修理部品がなくても何かで代用して修理したり、粗末な道具でジャッキがなくともクラッチプレートまで交換してしまいます。この違いは補助政策と仕事に対する楽しみや満足感にあるのではないかと思います。自動車の修理工には補助制度がありませんが、農民には、先に話したように講習会に出るだけで日当が支払われ、種が無料で配られ、肥料が無料で配られ、自ら観察し、学習していく過程が失われてしまっています。それと共に、成長の楽しみや収穫の喜びも失せています。日銭が稼ぎにくい事も一つの要因でしょう。
そんな彼らに、農業の喜びを若いときから教えられないだろうかと言うのが、農業高校新設計画のきっかけです。面白い農業教育ができないかと模索しています。
すでに、学校運営の許可は廃校になっている私立中学のものを使う事に決まっています。問題はやっぱりお金です。そして『金』が絡むと政治家、役人などの有力者がちょっかいを出し始めます。お金をめぐる攻防が一番疲れます。
お金を得るにはやはり援助の申請と言う事になります。私が言い出しっぺでもあるし、日本大使館からの草の根援助と言う制度があるので、そこに申請したいのですが、インドでは海外からのお金を得るには許可が必要です。その許可を取るのにまた一苦労です。2月に申請し、4月に戻ってきた返事は『6ヵ月後にあなたの案件を審査します』です。続いて5月に受けた連絡は『受け付けられないので、どうしても必要ならprior permit(別の許可)を取りなさい』です。これでは支援の申請さえできなくなってしまいます。州知事に直談判で相談し、私の活動を認めてもらい、知事の助けを得て再申請しました。驚くべき事に2週間で許可を取ってくれました。
学歴社会
インドは役人天国・学歴天国です。その中でもミゾラムでは特に際立ち10年前までは大学を出れば必ず公職につけ、将来は保障されていました。学歴だけ取れば一生遊んで暮らせるのです。仕事が無くても高い給料がもらえるのです。
実際、役所の中で仕事をしているのはごく一部。みんな職場でゲームをしたりお茶を飲んでしゃべっていたり、遊んでいます(日本人諸君よ、怒れ!日本政府は毎年1000億円もインドにお金をあげているんだぞ!そのお金でミゾラム人は遊んでいるのだ)。学歴さえとれば良いという風潮があり、学歴の無い者が一生懸命仕事をするのです。学歴はいわば褒美みたいな物で、いわゆる日本で問題になった学歴社会がここでは生きているのです。
しかし誰でも高い教育を受けられるわけではなく、高い教育を受けたとて公職目的の不純な動機では教育を生かす仕事はできません。日本では企業が学歴社会を拒否し始めましたが、役人天国のインドの中でも有数の役人天国であるミゾラムでは変わりそうもありません。結局ここでは全ての教育が無駄になっているのです。現在100万人の人口に対して公務員が8万人です!子供・老人を含め10人強に1人は公務員なのです。しかし、公職での雇用も予算的にもう限界にきています。大学出のプータロー(何もしないでブラブラしている人)がウジャウジャいます。彼らは学歴を取ったのに公職につけないのは政府の責任だとして、文句を言ってばかりで何もしません。特に肉体労働は絶対にしません。みな、オフィスで遊んでいる公務員を見ていますから、自分もそうなる資格があると思い込んでいるのです。
青年協力隊要請 -- 現在も作業中
開発途上国で様々な活動をしている青年協力隊がインドには来ていないと言うとビックリする人が多いのですが、実際その通りなのです。しかし、2003年度からは受け入れられる事になり、現在根回しの最中。青年協力隊は国家間の事業なので、個人的には受け付けてもらえず、州政府として要請して貰わなければなりません。賄賂なくしては動かない役人・政治家相手に私の活動を理解してもらい、希望に添うような形で招聘してもらうのです。
炭焼き・木酢液に始まり、堆肥・ボカシ肥、こちらでは新しい野菜(大根、チンゲン菜、ネギ等)、有機栽培技術が少しずつ関心を呼び、日本の技術も広まってきています。と同時に私も手が回らなくなって来ています。それに加え、農業高校新設。どうしても日本人の手助けが必要になってきているのです。
まだ、日本−インド間で合意したのみで詳細が決まっておらず、なかなか進展しませんが、なんとかミゾラムに招聘しようと必死になっております。
クリスマス景気でパソコン利用者急増、インターネットがパンク状態(2001年12月)
12月に入るとインターネットサーバーが利用者急増の為パンク状態になりました。Eメールの送受信が非常に困難になり、1通送るのに20分以上かかり、それでも送れれば良いほうで途中で切れてしまう事が殆どでした。今でこそ少し改善されたものの、インターネット事情は昨年の電電公社民営化以後どんどん悪くなる一方です。民営化といっても名前が変わっただけで、依然旧電電公社が独占しているので、サービスが悪くなるほど彼らが儲けているだけなのです。この為、大切なメールが届かず、後述する2月に行ったワークショップの準備が間に合わなくなってしまいました。
日本でもそうですが、インターネットの為にここでも夜型の人が増えてきました。深夜でないとスムーズにつながらないからです。
ネパール行き(2001年12月中旬〜2002年1月中旬)
クリスマスから正月にかけてネパールに行ってきました。アラハバード農科大学で勉強しているキマ君(ミゾラム人)とその友達のアディム君(マニプール人)に山岳地帯の持続可能農業の実践を勉強させるためです。私自身がいつも勉強させてもらっているINSAN(Institute for Sustainable Agriculture Nepal)とそのプロジェクトエリア、AAA(Alternative Appropriate Agriculture)Farm、元AAA Farm講師のプロジェクト農家を案内しました。
彼らは同じ山岳地帯の植物生態系が似た土地での持続可能農業の方法を、実践現場を実際見る事で大いに勉強になったと満足していました。ただ残念な事に、AAA Farmは私が毎年のように勉強させてもらっているところなのですが、近年サラダ用の野菜ばかり作っており、おかしいな?と思っていたら、資金不足で自活のために外人相手の一流ホテルに出荷しているとのこと。今、ここには外国人しかおらず、研修プログラムも行っていないと言う事で、つまりは外国人がここで有機農業をして生活を営んでいるに過ぎなくなってしまったのです。これもNGOの実態の一つなのです。
友人の元AAA Farm講師のプロジェクト農家のそばには面白い夫婦が住んでいて、自分の子供より若いネパール人女性と再婚した英国人の老人が、食糧とエネルギーをほぼ自給して暮らしています。福岡正信式の自然農法で畑は無駄なく使われ冬でもいろいろな作物に溢れ、黒いパイプを巻いただけの湯沸し器は斜面の重力を使ってシャワー室に、鏡を使って太陽熱を利用したご飯も炊けるコンロ、「家の中は歩く所ではない」と言う小さな家は寝る場所と物置とシャワー室だけ、レンガを積み上げただけのオーブンで焼いたケーキはとても美味しく、孫より小さい子供のための遊具は全て自然を使った手作り。そこにいるだけで幸せになる不思議な空間でした。
ネパールでの私の楽しみの一つは、日本食を食べて銭湯に浸かる事です。大晦日にはお湯に浸かった後、年越しそばと、日本時間では正月を迎えた夜9時には雑煮も作ってもらい、2年振りに日本式の新年の真似事を味わってきました。
正月はポカラに移動し、美しいヒマラヤを眺め、バイクを借りてツーリングを楽しみながら、NGOのプロジェクトを訪ねたりネパール州政府のプロジェクトを見学したり、村の人々の仕事を見て回りました。
インドに戻り、彼らをアラハバードに帰した後、カルカッタで日本領事館の新年会に出席、ここで2年振りに日本の正月料理を頂き(日本酒も!!!) 、カルカッタのNGOを見学した後ミゾラムに戻りました。
ワークショップ(2月)
今年は日本から国際炭焼き協力会一行が来て、ワークショップを開いてくれました。しかし、その準備が大変でした。と言うのも、前述の通り、12月にインターネット事情が非常に悪くなり、大切な日程変更のメールが届かなかったのです。当初3月に行う予定が急遽2月になり、それが分かったのはネパール滞在中。ミゾラムに帰れるのは1月中旬だったので、僅か半月で準備しなければなりません。ミゾラム入域許可取得、インド国内航空券手配に始まって、日程作り、材料準備、移動・宿泊の手配、広報など、しかも1ヶ月近く空けた我が農園も見なければならず、駆けずり回った1月後半でした。
そして2月、一行を迎える直前に、私は突然の高熱を発して入院。40度の熱が5日間も続き、結局ワークショップも私自身は参加できず、全部を人に任せてしまったのでした。
今回のワークショップでは、
国際炭焼き協力会の広若剛さん(3回目のミゾラム)、
養鶏・自然農法家の高橋丈夫さん(2回目、著書『生命農法』(三五館)は農業書ベストセラー)、
炭焼き師の溝口秀士さん(初参加、著書『オイル缶炭焼き術』(創森社)好評発売中)、
ソーシャルワーカーの斎藤妙子さん(初参加)
に指導していただきました。
チンチップ村に本格的炭焼き窯を作り、合わせて、溝口さんは非常に小さな簡易炭焼き窯の作り方を教えてくれました。収穫量の少なさは度外視し、誰でも手軽にできる方法として、ミゾラムでは今関心を呼んでいます。本格的炭焼き窯は、3月に入り私が出張できるようにになってから稼動を始めました。私自身もでき立ての炭窯を使うのは初めてです。覚悟していた通りのひび割れに悩まされながらも、数回の炭焼きで収穫・品質も安定してきました。
入院(2月)
ワークショップの準備が大詰めに来た2月3日、私は突然の高熱を発してダウン。熱を計ったら41度、緊急入院しました。原因は結局不明。医師もいい加減に薬を処方するだけで一向に熱は下がらず40度の高熱が5日間続きました。そしておかしな抗生物質を打たれ、熱は下がったものの肝炎を併発してしまいました。
『医師の責任は患者の病状を回復する事、あなたの熱が下がったので文句を言われる筋合いは無い』と病院側は責任を回避しています。結局12日間入院し、フラフラの状態で自主退院してワークショップの最終日の講演に出向いたのでした。これがミゾラムの病院の現状です。以後、肝臓をやられた所為で体力が落ちてしまい、未だに回復していません。
パソコンウィルス感染(2月)
入院中もパソコンを病院に持ち込み、近くの公衆電話につないでメールチェックをしていましたが、『あなたのパソコンはウィルスに感染しています』と言う英文メールが送られてきました。すぐにメールを削除したものの、その後コンピューターは全く動かなくなってしまいました。ウィルスにやられたのでした。結局全てのデータを捨てて購入時の状態に戻したものの今でも動きは遅く、途中で止まってしまったりと不具合は続いています。私自身の病気とコンピューター、双方共にウィルスにやられた散々な2月でした(双方共に未だに完治せず、憂いは続きます)。
豚の死産(2月)
退院後、家で静養しながらも農園に出向き、豚の出産に備えていましたが、結局死産となりました。充分な水が与えられなかったことが原因と思われます。いたずらで蹴飛ばされたか、獣姦という可能性もあります(インド本土からの出稼ぎ労働者が多いミゾラムでは獣姦も多いらしいです)。ミゾラム1番の豚と太鼓判を押され、豚も健康そのもの体調も良く、途中経過順調だったので、それしか考えられないと獣医は言います。私自身にも心当たりがあるので農園の使用人をついにクビにしました。以前から私がいないと仕事をやらず、豚に水をやる事もサボっていたからです。それ以外にも後述の通り、家畜の餌を転売しているのが明らかになったからです。
労働者
ここでまともな労働者を雇うのはとても困難です。2000年の11月から我がモデルファームにも一人労働者を置いていますが、現在の使用人は6人目。仕事を求めるものは多いがきちんと仕事をするものは皆無です。
農園の鶏を食べてしまったり、種を売ってしまったりと言う事は以前にも書きましたが、今度は豚や鶏の餌を売ってしまったのです。豚の餌は1日当たりの給餌量を定めているし、給餌量はおおよそ守られているので、一回の購入量で50日間使えると計算できます。しかし、使用人は、沢山あるから少しぐらい転売してもわからないだろうと思ったようです。
ここが能力の境目です。わからない位の量を上手く誤魔化しながら転売すればよいものを、50日の間に何度か転売しているうちに、全体でどの位転売したかわからなくなってしまったようです。結局半分近い量を転売してしまい、1ヶ月経たないうちに餌がなくなってしまったのです。私も餌の購入量・使用量を計算しながら出張を繰り返しているので、突然餌がなくなったと言われても出張先からは買って届けることはできません。日本人であると足元を見られ、通常より高い給料を払っているのにこの有り様です。これは仕事以前の問題です。
では、仕事はと言うと・・・、
『上司がいないときには仕事をサボり、いる前ではきちんと仕事をする』これは当たり前です。誰にでも経験があることだし、可愛いもんです。ここでの問題は、『上司がいないときにサボっていたことをルーチンにしてしまい、上司の前でも継続してしまう』ことです。私のいない間に仕事をいい加減に行い、私が帰ってきたときには元の仕事をすっかり忘れてしまい、自分なりのいい加減なやり方を見せつけるのです。忘れることも非常に多く、家畜の水やり、苗の水やりをよく忘れます。そして一度忘れるとそれ以後その仕事があることをすっかり忘れてしまうのです。苗を枯らしたのはしっかり証拠が残りますが、鶏の雛はなぜ弱って死んでいくのかしばらく原因がわかりませんでした。水分不足は病状が出ないのです。豚の流産も然りです。
ほとんどの労働者は農村出身者であり、長年畑仕事に従事していたといいますが、知っていることと言えば『種を蒔いて待っていると作物ができる』『種は雨の前に蒔くと良い』『雑草は抜いたほうが良い』といった程度です。鶏はたいてい放し飼いで世話をすることはほとんどありません。豚の餌箱には残飯を煮たお粥状のものを常時入れておくだけです。
もともとあり余る労働者たちは農業が嫌で町に出てきた人間です。大した仕事もできずに離れた仕事をここでできるわけがないのです。
2月末にクビにした使用人の後釜として3月に雇った使用人は、勝手に自分の息子に仕事を任せ、その息子は仕事をやらない、鶏を盗む、農機具を盗む、しかも仕事量が多いから給料上げろと言う始末です。1ヶ月で解雇しました。4月に雇った者は酒飲みで、これも仕事をやらず1ヶ月でクビです。結局3月4月に雇ったものが家畜への餌やりもせず、鶏が共食いを始め、卵を食べ始め、農園はメチャクチャになってしまいました。5月から雇った者は最低限のことはしているものの、言われた事以外はやらず。我が農園の使用人問題は深刻です。
これは我が農園だけの問題ではなく、ミゾラムの農民全体に言える事です。自然の中、山の中に暮らしているのに、目の前の自然と向き合う事がなかなかできないのです。
村上真平著『Lessons from Nature』翻訳完成 出版作業継続中(2月)
昨年来進めてきた村上真平著『Lessons from Nature』が翻訳終了しました。
この本は、バングラデシュで長年地域開発に関わってきた村上さんが、熱帯地域での生態系に適した農業について書かれた本で、村上さんに許可を頂いて翻訳出版を目指しているものです。
ミゾラム語で書かれた基本的な農業書はこれまでに出版された事は無く、農民が農業の基礎知識を知らないのが現状の中で、私のこの本の出版における効果の期待には大きいものがあります。
この出版費用を捻出しようと、農業省や関係各省へ売り込み交渉に行き、原本翻訳本ともに提出しました。しかし、審査はなかなか進みません。5月に州知事に謁見する事ができ、そこで直談判したらやっと書類が回り出し、州政府から出版される事になりました。
その出版をめぐり現在駆け引きの最中です。と言うのは、「政府出版=政治家・役人の金儲け」となるからです。印刷の仕事を政治家・役人のコネの会社に取られると、政治家・役人・有力者をたっぷりと儲けさせ、こちらに1銭の利益も無くなってしまうのです。会議のお茶代、交通費、サンプルの印刷代だけでも馬鹿にならない金額が赤字になってしまうのです。関係省庁に交渉したり、知人、コネをフル稼働して、こちらの印刷で、予算最大の部数を発行できるよう現在も奔走中です。
神奈川県海外技術研修員(3月)
1999年度に続いて、今年度も神奈川県海外技術研修員がミゾラムから選考されました。5月から来年3月までの約10ヶ月間、神奈川県国際研修センターに寝泊りし、神奈川県農業総合研究所で病害虫の生物学的防除を学びます。日本とミゾラムでは当然病害虫の種類は違いますが、生態系を守っていくには不可欠な知識です。考え方や基本的なことだけをきちんと理解し、こちらの環境に合わせた技術に変えていくのが目的です。ミゾラムから送ったモンプーヤ君は頭脳明瞭なだけでなく、実際のフィールド経験豊富でこちらの動植物に詳しいので、研修終了後のミゾラムに帰ってからの研究と実践に期待が持てます。
神奈川県の皆様、皆様から頂いた税金をミゾラムの農業開発の為に有効に使わせて頂いております。ありがとうございます。
以下の住所に滞在し、神奈川県農業総合研究所で研修しますので、ぜひ彼を訪ねて励ましてあげて下さい。
滞在先 神奈川県国際研修センター
横浜市旭区中尾2−6−1
電話 045−366−0157
交通は、横浜駅から相鉄線の急行で10分の二俣川駅から徒歩20分(運転免許試験場の少し先。駅からは運転免許試験場までずっと案内板が続いています。)
堆肥舎作り(3月)
チンチップ村の農家の畑に、堆肥舎を作りました。冬の間に作る予定だったのですが、時間が取れず、3月になってしまいました。斜面を利用した3段の階段状のもので、切り返しが楽に行えます。
ミャンマー人が農園の研修兼手伝いに来る(3月)
前述の通り、労働者の質の悪さに手を焼いているときに、ミャンマー人のダマ君が私のところに研修兼手伝いに来てくれました。
彼はミャンマーとミゾラム国境のミャンマー側の貧しい村で生まれ、教育を受ける機会の無いところをミゾラム人の宣教師に見初められて、小学生のときにミゾラムに連れて来られて教育を受けた者です。現在牧師としてミャンマー神学校の教師をしています。私が彼を知った1995年当時はまだ神学校の学生で、住み込みのメイドとして各家を転々としながら学生生活を送っておりました。
彼は本音として、教育を受けるためには神学校に行くしか道は無かったが、本当は村人のために農業を学びたかったと言うとおり、農業開発に強い意欲を持ち、毎年学期末の休みには私のところに来てくれます。まともな労働者が見つからず困っている状態に加え、地方での作業にも忙しくしている中、農園が崩壊せずに済んだのは彼のおかげです。ミゾラムはインドの少数民族保護政策で潤っていますが、国境線一本越えたミャンマーでは保護政策が無いどころか、貧しい農民に対しても政府やゲリラによる略奪が横行し、厳しい生活を強いられているのです。それだけに農業技術を求める意欲は強いものがあります。
焼畑体験(3月)
焼畑を止めるべく仕事をしているわけですが、常畑を指導している農家のところで焼畑での米の播種を手伝ってきました。彼は減収を恐れ、常畑は3割で残り7割は結局焼畑を続けているのです。仕方ないと思いつつ、常畑での播種のあと体験のためにではありますが実際にやってみました。
焼畑は確かに楽だけではなく、人間の行動生理に合っています。彼らの常畑での等高線ごとの種蒔きは非常に遅いのですが、焼畑の適当に撒いていく作業は非常に早いのです。私はどちらでやっても同じ速さですが、斜面での作業の姿勢は焼畑のように上へ上へと上っていく斜面に向かって上下斜めに足を置く姿勢のほうがずっと楽です。
等高線上の斜面を横歩きしながらの種蒔きは踏ん張りが利かず不安定です(しかし、北部タイでは斜面を等高線上に蒔いていくのを見ました)。そこで、少しでも土壌流亡を防ごうと、自分の姿勢の範囲内で線上に播種するよう指示しましたが、これができません。習慣的にアトランダムに植えてきたので、上半身は回転移動しかできず、日本人の田植えのように、足を踏ん張ったまま上体の平行移動ができないのです。頑張ってやらせてみても、作業が遅く、仕事になりません。う〜ん、体育の授業が必要だ。話はそれますが、こちらの学校には体育の授業はありません。音楽、図工、家庭科も然りです。これでは大器晩成型の子供たち(たいてい実技に優れている)が名誉挽回の機会を失い、劣等生になってしまいかわいそうです。
昨年も報告させて頂きましたが、焼畑は簡単です。病虫害も少なくなります。しかし、不思議に思うのは、焼畑と言えども畑を焼く前の冬の間、その範囲の森林(ほとんどが竹林です)を伐採し、乾燥させておかなければなりません。その労働を考えたら、種蒔きの簡便さや病虫害の防除の手間も同じような気がします。おまけに常畑にすれば冬作もいくらかは可能になってくる筈です。
ただし、除草に関しては別です。焼畑の場合、雑草の種まで一緒に焼いてしまうので雑草が生えにくくなります。ここでの雨季の除草は大変です。そして、彼等には除草の大変さがわかりません。焼畑をやってきた人間にとっては、つらい除草の習慣がないのです。農家にとっては一番つらい仕事ですが、日本では草むしりは当たり前です。これは一番大きな問題かも知れません。今年で3年目の常畑は年々雑草の数が増し、除草が追いつきません。私が指導している農家も除草をあきらめかけているところです。
私が一番嫌なのは労働そのものではなく、蛭に食われることです。彼らと一緒のところで同じ仕事をしても大体食われるのは私です。私の皮膚が弱いのか?間抜けなだけか?私は私の血が一番美味いからだと思いますが、とにかく蛭は嫌です。さらに話はそれますが、蛭は忘れたころにやってきます。オヤッ?と思ったときには股のあたりまでやってきます。地下足袋とズボンの間から入り込み、1〜2時間後にミミズの這うような感触が有ったときにはもう手遅れです。縫い糸ほどの蛭はタップリと血を吸い5mm位の太さになってなお私の皮膚に喰らいついています。無理に剥せば血が止まらずデカイ傷が残り、潰せばあたり血まみれ。火で煽って剥すのがよいのですが、たいていは服の上から潰して血まみれにしまうことが多いです。感触が合った瞬間、ついつい咄嗟に服の上から引っ掻いてしまうのです。
余談が長くなってしまったが、常畑に転換中のこの農家には僅かながら政府から補助金が出ています(なぜか教えている私にはくれません)。補助金が切れる前に成功させておかなければならないのですが、仕事の多さに飽き始めているようです。この補助金を増額させるのも、日本人と言うことで役所に顔が利く私の仕事です。こんな仕事でも1回半日がかりで数回通うことになり、つまらぬ仕事ばかりが増えてしまうのです。
印パ間の緊張高まり、買いだめ騒動、緊張はワールドカップで解消?(5月)
5月下旬からインド・パキスタン間の緊張が高まり、戦争に発展する可能性が高まりました。
日本大使館からは帰国を促すかなり緊迫した内容の退避勧告が頻繁に入りました。私の住んでいるミゾラムは紛争地域から遠く離れているので特に身の危険は感じませんが、生活物資のほとんどを輸入に頼っているため、戦争による燃料の不足から流通が途絶えることが懸念されて買いだめが始まりました。
特にガソリンが買いだめの的になりました。雨季のためガソリンの輸送が不定期になっていることに加え、供給制限が始まったので、町はパニックになりました。私も6月はガソリン購入のために何日も費やしました。1人10リットルまでという制限ができましたので、何度も並んでごまかして買うのです。
当初は車がガソリンスタンドに行列を作り付近は大渋滞・大混乱になりました。すると渋滞解消のためにスタンドは車の進入禁止となり、人々はポリタンクを持って並ぶようになりました。そのうちに、車を持っていない人がガソリンの闇販売を始めた結果、今度は車以外には給油しなくなりポリタンクへの販売は中止といった具合で、コロコロと変わる制度に混乱です。闇ガソリンの価格は高騰し、とうとう1リットル40〜45ルピー(110〜120円)、日本より高くなっています。ガソリンの供給制限は今も続いており、購入に苦労しています。
ガソリンの他、家畜の餌も買いだめしました。若干値上がりした程度でしたが、品不足で一時買えなくなりました。買えなくなると不安は一挙に高まります。家畜の命がかかっているのですから。あちこちの店を探し回るのに時間を潰します。やっと見つけた餌は売れ残りの保存状態が悪いもので変な匂いがしていても背に腹は代えられません。きちんと便乗値上げされた質の悪い高い餌を買い込みました。ところがどっこい、家畜の餌に関してはきちんと流通しており、買いだめ騒動の為に一時的に品不足になっただけ、一週間も経つと元通りに普通に買えるようになりました。高くて粗悪品を買わされた私は馬鹿を見てしまいました。しかしそのような餌も雨季のため、輸送・保管時に大量の湿気を吸収してしまい、質の劣化は激しく、厳しい状況に変わりはありません。
印パ間の実際の詳しい状況は、実はインドにいる私の方が皆さんより疎いのではないかと思います。こちらの情報源はテレビだけですので、国営テレビは当然インド寄りの情報ですし、衛星放送のBBCニュースは他人事のようなレポートばかりです。
しかし、ワールドカップが始まってから緊張は緩和されました。みんなワールドカップに夢中になって戦争どころではないようです。ところがこのワールドカップ、もちろん私も興味あるものの、このせいで政府との交渉事が全然が進みません。役人もみんな仕事中にもかかわらずテレビに夢中です。アポイントが反故にされ、ゲーム中は交渉も上の空です。
ミゾラムでワールドカップが見られるのはケーブルテレビがあるところだけです。村ではインドネシアの衛星放送を見ます。画像は悪く、加えてインドネシアはイスラム教国、ゲーム中でもお祈りの時間になると3分ほど中継がストップし、イスラム寺院が写ってコーランが流れます。
日韓の情報発信の差(6月)
ワールドカップでは日韓の世界に対するアピール力の差を見せつけられました。ミゾラムでもワールドカップガイド、ハンドブックなどが数種類出版されましたが、殆どはインターネットからの情報です。日本サッカー協会に英語のサイトは無く、各自治体も英語のサイトはありません。しかし、韓国は英語のサイトが豊富です。当然、韓国の情報ばかり流れ、日本の情報は入ってきません。また、国際放送でもNHKは海外の日本人用のみですが、韓国は外国人向けの英語の韓国放送(アリラン)を持っています。韓国の観光案内、歴史・文化情報、最新技術情報、料理(日本料理も韓国料理として出てくる)等など、日本のテレビドラマも放映していますが、韓国のものとして受け取られています。日本も海外向けのアピールが必要です。
卵と鶏の話3題
1. 1ヶ月腐らない卵
肥料を得るために豚や鶏を飼い出したのですが、初めての経験であるが故に困難に遭うと共に発見も多くあります。その中でも発見は、卵は1ヶ月は腐らないと言う事。実際に私が確認したのは28日間ですが、日本では鮮度を気にする方も多いので報告させて頂く次第です。その根拠はと言うと、農園の放し飼いの地鶏は産卵率が良くなく、約4週間かけて15〜20個産んだところで抱卵を始めます。毎日生まれた卵に日付を書いてチェックしているので間違いありません。そして28日前の卵でも孵っているのです。腐っていたら孵る訳はありません。日本のようにカルシウムなどの飼料は与えていませんので殻は薄いのですがそれでも大丈夫です。気温は30度くらいのところでしたら問題ありません。
2. 売れない高品質の鶏
ブロイラーや産卵鶏の雄は肉用になりますが、ある程度まで大きくしないと肉が美味しくなりません。私の経験ではブロイラーは3ヶ月育てて3.5kg以上にしないといい味が出てきません。しかし、精肉を売る習慣が無いミゾラムでは鶏は1羽単位で生きたまま売ります。大きな鶏では一家族には多すぎて売れないのです。一般に出回っているのは2ヶ月で2kg位のもの。そして、この味に慣れてしまった町の人々は鶏肉とはこんなものだと思ってしまい、肉の旨味を感じてくれません。精肉にした場合は冷蔵庫が無いと店に出せませんし、売れ残ったら腐らせるだけです。店には冷蔵庫はありませんし、あったとしても停電が多いので1羽単位で生きたままでしか売る事ができないのです。餌を与えておけば腐る事はありませんから。
また、2ヶ月以上のブロイラーはそれ以上に育てると給餌量が経済的に合わなくなってくるのも確かです。経済的に合わないから不味くても我慢して食べているうちに味が分からなくなってしまうと言うのは、人間も『餌』を食べているのかと思いたくなります。
3. 可愛い鶏・醜い鶏
農園では地鶏、産卵鶏、ブロイラーと全てを飼っています。ヒヨコを見るとみんな可愛いので当初は可愛さから後で食べられなくなるのではと思った事もありました。しかし世の中うまくできたもので、ブロイラーの顔は一ヶ月半で醜くなってしまいます。賢くもないので屠殺にも余り抵抗無くできてしまいます。しかし、地鶏の顔はいつまで経っても醜くならず、しかも賢いので屠殺には抵抗を感じます。産卵鶏はその中間です。雄を間引きするときは肉付きの状態、雌の面倒見に加え、顔の良し悪しも出荷条件にしています。
ガリバー旅行記
昨年来、インド在住の方々に沢山本を頂き、この一年で何10冊か本を読みました。その中で、正月にカルカッタ在住の友人に貰ったガリバー旅行記に驚きました。
有名な小説なので、誰でも読んだ事があると思いますが、たいていは子供向けの本で読んだだけで、全篇を読まれた方は余り多くないのではと思います。私もそうでした。今年になって初めて全篇を読んでみると、ガリバー旅行記は探検・冒険小説ではなく、社会風刺小説だったのです。舞台は17世紀のイギリスです。そして、この状況が今私が住んでいるミゾラムそっくりなのです。ミゾラムの状況・問題を説明するのにはガリバー旅行記を全篇読んで頂ければ分かるのです。是非一度読んでみて下さい。特に第3章、第4章。もちろん小説の中では全部比喩で語られていますが。
その他、細かな相談・指示・指導は随時多数舞い込み、行っています。
農村滞在中には各農家の農業指導の他、栄養・料理指導(知識不足によりきちんとした栄養が取れていない)、母乳指導(粉ミルク問題は深刻です)、ゴミ問題(ビニール公害防止)、歯科衛生指導(虫歯の急増)等も行っています。ありとあらゆる問題が山積しているので農業指導だけにとどまりません。
長い報告を最後まで読んで頂きありがとうございました。
まだまだお知らせしたい事は沢山あります。しかし、生活、文化、風習、気候、国家形態、衣食住全てにおいて背景が違うので、一つの出来事を説明するにもクドクドとした説明が必要になり、文も長くなると果たして皆さんに理解してもらえる文になっているか不安になります。
分かりにくい点も多いと思います。是非ご質問・ご感想をお送りください。お待ちしております。なお、約100名の方にミゾラム便りを配信していますが、同じ質問が3名以上の方から来られた場合は、皆様全員にお答えを配信しております。
横田仁志
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